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  よく近所でみかける 奥さんにはなれないわぁ~ §>_<§

  よく近所でみかける 奥さんにはなれないわぁ~ §>_<§

丸岡城

丸岡城
現存する天守閣の中では日本最古を誇る丸岡城。

その歴史は天正四年(1576)に溯る。

当時、越前の国の守護職であった柴田勝家の甥、柴田勝豊は西方院跡に豊原城を構えておりましたが、豊原城から丸岡に移り、丸岡城を築城したのでございます。

勝豊以後、安井家清、青山修理亮、今村盛次、本多成重以下四代、有馬清純以下八代の居城を経て明治維新を迎え、

その後、明治三十四年に丸岡町所有となったりました


昭和九年に国宝に指定されましたが、福井大震災(昭和二十三年)で倒壊。

その後昭和二十五年に重要文化財に指定された後、昭和三十年に修復再建されております

天守閣はその当時のままの状態で保存されており屋根は二重、内部は三層となっております

また、屋根の瓦が全て石(笏谷石・しゃくだにいし)で造られているのは、全国でも珍しい特徴のひとつです。

   霞むお城の桜の盛り どれが花やら霞やら 

と 俗謡にうたわれておりますが 丸岡城の別名を 『霞ヶ城』と申しております

戦いまさにたけなわの時 井戸から大蛇が現れて 霞を吐きかけ お城を守った との いいつたえもございます

また お城の入り口には 碑が たっておりまして そこには 日本で一番短い手紙文 として有名な
 
 『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』

と刻まれております コレは 丸岡城主 本多成重の父 本多作左エ門が戦場から家族にあてた手紙でございます

簡潔に用を成した手紙文として むかしから有名でございます

この お仙とゆうのは 成重の幼名 仙千代のことで 仙千代は 父 作左ェ門の 陣中の功績により

徳川家康から このお城をいただき 名前も 成重とかえ丸岡城主となりました
  

さて 先ほど 大蛇の話しを させていただきましたが この丸岡城に伝わる お話しがありますので ひもといてまいりましょう

 越路の秋もようやく深まりかけた ある暮れ方 北陸道を 北へ急ぐ侍従四人の旅姿がございました

両脇から抱えられるように よろめく足をふみしめているのは 柴田勝豊の重臣 藤井しょうげん

付き添うのは その子 小太郎 娘のお静 下男・弥平の四人でございます

藤井しょうげん は 一向一揆平定の折り 病を患い 身を潜めておりましたが

勝豊が 豊原の城主となったとの知らせを聞いて ここ越前に向かったのでございます

ところが しょうげんの病は再発し 父の名を呼ぶ 子供の声ももはやしょうげんにんは うつろにしか届かなくなっていました

そして苦しい息の下から『小太郎を頼む』と 息を耐えてしまいました

後は遠く人馬の嘶きがむなしく響くばかりでした

残された3人は 丸岡から西へ半里 長崎にある 称念寺とゆうところに 身を寄せましたが 

お城からのお召しの声は一向にかかりませんでした

それから数ヵ月後 豊原のお城を丸岡にうつすことになり 数百人の人夫が石垣を築きはじめたのですが 不思議にも次から次へと崩れてしまいます

これは山頂にあった 神明さんを下におろしたためだといわれ 人柱を立てることになったのです

そして 人柱になった遺族は 侍分に取り立てられるとのうわさを聞いたお静は ひそかに決心 していたのでございます

天正4年 4月のある日 お静の宿 称念寺の門前に 美しい装いを凝らしたカゴとまります お城からの迎えのカゴでございます

お静は 訝る弟 小太郎にむかい

「これから 殿のお召しによって 城へまいらねばなりません 4年の間まってくだされ」

とかごの中にきえていきました

こうして お静は 生きながらにして 本丸の下の大柱の下にうめられてしまいました

しかし 小太郎は 5年たっても侍には取り立てられなかったといわれています

その後 勝豊は 得体の知れない病気で 亡くなっております

こうして 毎年お静の命日には しとしと と雨が降って お堀の水が増したそうですが

これを お静のなみだあめ といっております

霞を吐きかけて お城を守ったとゆう大蛇は お静の化身だといわれております


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